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サトーハチロー 心使いはスパゲッチにマカロニに

わたしたちの
いちばんのたからものは、
心にきざまれた思い出です。

    心使いはスパゲッチにマカロニに
                 
               サトーハチロー

妹の誕生日には
細くてかわいいスパゲッチ
弟の時には
丸々としたマカロニ
わたしのその時には かんざし型のも
うつくしくかざってくれる心使い
それをこしらえるときの
満足そうな母の顔
よくのぞきに行ったわたしたち
オーブンをあける時のうれしそうな姿
お皿からたちのぼる湯気の中に
それが 次から次へとちらつくのです
               
 サトーハチロー『おかあさん』(日本図書センター)

【 豊かな愛に育まれてこそ 】

子どものまぶたの裏に、
この詩が言うような、
記憶の映像が鮮明に描かれれば、
お母さんの子育ては、
ほぼ成功していると考えてよさそうです。
〈細くてかわいいスパゲッチ〉
は妹に、
弟には
〈丸々としたマカロニ〉、
わたしにはおしゃれな
〈かんざし型〉
と・・・・・、
ひとりひとりに応じた、
母親のみごとな演出があります。
だからこそ、みんなの喜びがあります。

豊かな愛で育む母親の姿。
しあわせに育ち行く子どもの笑顔。
みんなの願う世界です。

今日も、
子ども虐待の報道がありました。
一方で、
芸能人の話題に熱中するメディア。
一方で、
片隅に追いやられる小さな記事。 
一方で、
窃盗事件・孤独死・詐欺・虐待・暴行・・・

ほんの少し、
少しだけ生活にゆとりがあれば、
心にゆとりがあれば、
おきる必要のなかった事件だったはず。
混迷する現代社会は、
重い刃となって、
ささやかな親子の愛情さえ
引き裂こうとします。

宮沢賢治が、
「世界がぜんたい幸福にならないうちは
 個人の幸福はあり得ない」
と「農民芸術概論綱要」に記したのは、
今から80年以上前の
1926年(大正15年)春でした。

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テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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谷川 俊太郎  みち

 私たちは、
いつも誰かと支え合いながら
(依存し合って)生きています。
 さまざまな他のもの・こととの
共生が大切だと気付くようになりました。
 私たちの一歩が、
少しずつつながり長い年月を経て、
「みち」を作ります。

   みち
           
         谷川 俊太郎 

ひとばんのうちに
すべてのみちがきえてしまった!
おおきなみちもちいさなみちも
まっしろなゆきのしたに

みぎもないひだりもない
まえもなくうしろもない
どんなみちしるべもちずもない
どこまでもひろがるしろいせかい

どこへでもゆけるそのまぶしさに
こころはかえってたちすくむ
おおぞらへつづくひとすじのあしあとを
めをつむりゆめみながら
                   
      谷川俊太郎『どきん』(理論社)


 【 希望と怖れ、矛盾する感情・・・それがドラマ 】

劇作家・戯曲家として揺るぎない評価を受ける、
木下順二。
彼のドラマ論は、
次のように本人が定義しています。
《 Aを願いAであろうとするほど、非Aになってしまう悲劇 》
《 その矛盾と葛藤のプロセス 》
なるほど、
彼の代表作のひとつ
「夕鶴」で描かれるのは、
愛を成就しようとすればするほど、
引き裂かれていく。
寄り添って生きたいと願えば願うほど、
その行動によって、
願いとはうらはらの
運命に引きずられてしまう、
ふたりの悲劇です。
胸をえぐられるほどの悲しい美しい世界です。
この、「みち」という詩に出会ったときに、
わたしのアンテナにピピッと感じたのが、
このドラマ論でした。

古今東西、
「道」に関わるじつに多くの詩や歌が残されています。
「道」そのものが、たとえば、
マルコポーロを東洋に導いた
「絹の道」であったり、
ガンジーが歩いた
「塩の道」であったりするように、
「道」は、
歴史や文化を示すものであり、
経済であり、
哲学や思想であり、
それらすべてが、
まぎれもなく、人々の営みの姿を示すものです。

ですから、
語り手が「みち」と語り出すときに、
その語り手の言葉を聴くときに、
目前の現実の「みち」と同時に、
現実の世界を超えた深い意味を持つ、
幾多のイメージを併せ持つ
「みち」のことまでも、
聴く側(読む側)は、
当然考えざるを得なくなります。
現実を超えた、
二重三重に深い意味を与えられた「みち」です。

この詩では、
書き出し
〈すべてのみちがきえてしまった!〉
に、まず驚かされます。
〈ひとばんのうちに〉
〈まっしろなゆきのしたに〉
それは
〈まっしろなゆき〉が夜間に降ったせいです。
ことがらの筋・事件の筋としては確かにそうです。
ですが、イメージ的には、
〈おおきなみちもちいさなみちも〉
と語られているので、
人類が追い求めた
〈すべてのみち〉だったり、
わたしにとっての追い求める
〈すべてのみち〉だったりと、
二重三重の意味を持ちます。
それがすべて〈きえてしまった!〉
これがイメージの筋です。
ことがらの筋とイメージの筋はこのように大きく違います。

さて、
〈みち〉が消えたことで、
〈どこへでもゆける〉
自由が目の前に広がります。
それは、これから自分自身の力で切り拓く、
〈まぶしい〉ほどの自由です。
けれどもそれは、
〈たちすくむ〉
ほどの恐ろしさを感じる「道程」をともなう自由です。

「だれかにすがれたら・・・」
「だれかのあとをついていけたら・・・」
これは楽勝です。
でも、
〈おおぞらへつづくひとすじのあしあと〉
を創るのは、まぎれもなく、己自身。
予想されるのは
とてもとても難しく険しい「みち」
ずっと遠い果てまで続く「みち」
これだけは間違いありません。
理想が高くなるほど、
「みち」
は、いっそう遠く険しくなることでしょう。
もう、ひたすら・・・
〈めをつむり〉
〈ゆめみながら〉
進むしかありません。
ひとが「みち」を求めるときに、
希望があり、怖れがあります。
両者は矛盾し、相容れないものです。

心の中で矛盾を感じ、葛藤する。
しかし、それでも、
一歩を踏み出し、
次の一歩、
次の一歩と、
歩いていかないわけにはいかない。
最善の努力をしても、
それが、
最善の結果につながるとも限らない、
ひとりひとりの人生もまた、
ドラマです。

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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原田 直友 きょうね

きょうね
           
         原田 直友

きょうね
わたしね
先生のこと
「おかあさんー」って 
よんじゃった
そしたら みんなクスクス
わらったよ
すると
先生もわらいながら
「なあに 春子ちゃん
おやつ ほしいのー」
だって
              原田直友『神さまと雲と小鳥たち』 かど創房

【 子どもがのびのび育つ学校作り 】

この詩の話者である〈わたし〉は、
きっと低学年の女の子でしょう。
でも、
この詩を書いた作者、
原田直友さんは元小学校校長のおじいさんです。
つまり、
話者と作者は別人!

この件について調べてみると、
次のような指摘がありました。
《私小説という分野が隆盛を極めた
明治の文壇の影響からか、
話者と作者を同一人物だと
勘違いする風潮があります》
たしかに、
話者という人物が設定されていることを抜きにした
「指導案」を何度か目にしたことがあります。
おそらく、
作者・話者・話主などが整理されていないのでしょう。
《作品で話を進めていく語り手が話者、
「 」内のセリフを語る人物を話主と区別します》
また、
授業中の先生が、
子どもへ質問(発問)するときに、
「作者は、このとき何をしているのでしょう」
などと問いかけるのを聞いたことがあります。
たとえば井上ひさしさんなどは、
鼻毛を抜いて原稿用紙に植え付けるのが趣味ですから、
そのころ、
自宅で熱心にその作業をしていたかもしれません。
(井上さん失礼しました)
もちろん、
作者が話者と重なっているような作品もあるのですが、
もう一方で、こ
の詩のように明らかに両者が異なる場合もあります。
作者=話者という、
過去の《風潮》から早く脱却するべきでしょうね。
さて、
小学校の低学年の子どもたちは、
この詩をどう受け取って読むのでしょうか。
ア 〈きょうね〉という題名が変わっています。
呼びかけのときに使う言葉です。
イ まるで、「せんせい あのね」で始まる
一年生の日記みたいです。
ウ 「おかあさん あのね きょうね がっこうでね・・・」と、
エ きっと、おうちに帰って
〈おかあさん〉に甘えながら話しているのかなあ。
オ 〈おかあさん〉に寄りかかって甘えたいんだ、
いっしょに過ごしていたい時間なんだ。
キ この子はとても幸せを感じています。
ク 〈おかあさん〉もきっと幸せを感じていることでしょう。
ケ この先生はやさしいな、おもしろいな。
コ クラスのみんなもやさしいな、おもしろいな。
子どもたちにも、
これと似たようなエピソードがあることでしょうから、
こんな内容に近い意見が、
話し合いの中から出てくることでしょう。

では、
親や教師たちは、
この詩をどう受け取って読むでしょう。
今述べた、ア~コについては、
(多少表現は難しくなるとしても)
ほぼ同じような意見じゃないかと想像できるでしょう。
さらに、
おとなのまなざしからすると、
じいんと心に響いてくることもあります。
それはまず、
このクラスの持つあたたかい雰囲気でしょう。
・〈わたし〉のちいさな失敗に、
ウイットやユーモアを感じる
〈先生〉の温かい包容力を感じます。
・〈クスクス〉楽しく笑い
(そしてあたたかく受け入れている)
友だちの存在。
そして、
次に感じるのは、
この詩に描かれるすてきな親子の関係です。
・〈わたし〉のお話を笑顔で聞いている
〈おかあさん〉の温かさ。
・〈おかあさん〉のことが大好きでたまらない、
〈春子ちゃん〉の愛らしさ。
さらにもうひとつ、
忘れてはいけないこともあります。
・他愛もない日常が何にもまして大切なことだと、
気づかせる作者のまなざしです。
温かい作者のまなざしです。
それぞれが、
どれもみな温かいイメージで、
そうして、
お互いに響き合っている世界です。
だから、
この詩をよむときに
皆が幸せな気分を感じられるのでしょう。
読んでいて
誰もが幸せを感じられる詩って、
素敵だなと思います。


テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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谷川俊太郎 わるくち

売り言葉に買い言葉といわれます。
ほんのささいなことから、はじまる口げんか。
当事者にしてみれば、
頭に血がのぼってたいへんですが、
それを眺める側に立つと、
おもしろいものです。

    わるくち

                谷川 俊太郎

ぼく なんだいと いったら
あいつ なにがなんだいと いった
ぼく このやろと いったら
あいつ ばかやろと いった

ぼく ぼけなすと いったら
あいつ おたんちんと いった
ぼく どでどでと いったら
あいつ ごびごびと いった

ぼく がちゃらめちゃらと いったら
あいつ ちょんびにゅるにゅると いった
ぼく ござまりでべれけぶんと いったら
あいつ それから? といった

そのつぎ なんといえばいいか
ぼく わからなくなりました
しかたないから へーんと いったら
あいつ ふーんと いった

谷川俊太郎『いちねんせい』 小学館

【 相手がいて自分がいる 】

相関的な見方・考え方というのがあります。
ふたつの(もの・こと)のあいだに
双方向的な関係をみていくものです。
自分が変われば相手も変わり、
相手が変わればまた自分も変わるという、
持ちつ持たれつつの関係が、
この詩に分かりやすく示されています。

題名が「わるくち」となっています。
一連と二連では、
たしかにそう、
〈わるくち〉の言い合いです。
〈ぼく〉がこう言ったから、
〈あいつ〉がそう言い返した。
〈あいつ〉がそう言ったので、
〈ぼく〉もこう言い返してやった。
まさに、持ちつ持たれつつの関係です。

でも、
一連に比べ二連は、
〈わるくち〉の言い合いでありながら、
ことばあそび的な要素が
だんだんにじみ出てきます。
〈どでどで〉に〈ごびごび〉なんて、
読んでいて笑ってしまいます。

三連を読むと、
〈どで~ごび〉が
さらに発展(悪のり)して、
〈がちゃらめちゃら〉に、
〈ちょんびにゅるにゅる〉と、
もはや〈わるくち〉かどうかが、怪しくなってきます。
いい気になって、
〈ござまりでべれけぶん〉のぼくに、
〈それから?〉という、〈あいつ〉。
意表をつかれる切り返しに、
たじろいでいる〈ぼく〉が見てとれます。
これも、持ちつ持たれつつの関係です。

それで、
四連になると〈わからなくなって〉、
〈しかたないから〉〈へーん〉と言って、
〈ふーん〉で終わって・・・・。
・・・なんじゃこりゃ!
 いつのまに!
けんかの終わり方まで、
持ちつ持たれつつの関係です。
人間関係はことほどさように、
持ちつ持たれつつの関係と教えてくれます。

おとなになっても、
むきになって、
きょうも、
言ったり言い返したりを続けている・・・、
そんなお二人に、
ぜひ教えてあげたい詩です。
うふふっ。


テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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松谷みよ子 三日月

三日月

          松谷 みよ子

いかついくちばしを胸ふかくさしいれ
くらい森をみはりながら
ふくろうは かんがえる

生まれてくる子には
赤い三日月をとってやろう
上にのってゆうらりゆれたり
ころがしたり
くわえたりしてあそぶだろう
森がそこだけ
ぼうっと ひかるだろう
きのこなんかも ひかるだろう

やがて父親となるふくろうの
いかついくちばしが つぶやいている

  松谷みよ子『びわの実学校25』びわの実文庫

【 三年生の一学期、「じんぶつ」について学ぼう。 】

三年生は、ちょいと難しい時期です。
とくに1学期は、
発達の差と言いましょうか、
個々の「ちがい」に目が向きます。
体格の面でも心の発育の面でも・・・。
いくぶん幼さを残す子がいれば
成長の早さをかなり感じる子もいて、
クラスの中でどちらもすこし目立っています。
とりたてて問題にならなければ、
いずれ「時」が解決する
「差」・「ちがい」なのですが、
担任は、子ども達の成長の幅について、
いくぶんかの心づもりが必要性だろうと思います。
「私のクラスには、
一年生から四年生まで同居しているのだ。」
くらいの気持ちで臨めば、たぶん大丈夫でしょう。
この詩の学習で三年生に学んでほしいのは、
友達や家族や先生といった身近な存在も含めて、
その人・相手をどう見るかという、
人間の見方・考え方・分かり方の問題です。
三年生ですから、
いずれ近いうちに、
自分自身を客観的に見られるようになってほしいわけですが、
この詩の学習で準備ができたらいいなと思います。

【 言っていること、していること 】
〈ふくろう〉という人物について考えましょう。
〈ふくろう〉は鳥です。
人間ではありません。
でも、詩の中では、「じんぶつ」です。
人間のようにもの思いにふけっているからです。
詩や物語の世界では、人間のように
話したり考えたりふるまったりする、つまり、
(人間のような言動をする)
存在は「じんぶつ」と呼ぶのだと、
一年生のうちからきちんと教えましょう。
さて、
「じんぶつ」をとらえる方法の基本はと言うと、
やはり、
言っていること・していることを見ていきます。
この「じんぶつ」のとらえ方も、
できれば一年生からきちんと教えましょう。
ところで、
ときどき面白いことがおきます。
言っていることと
していることが
ずれてしまっていたり、
すごいときは逆になってしまったりするのです。
ほんとうは、どんな「じんぶつ」なのか、
悩み、考えはじめるように作者が仕掛けてくるのです。
では、詩をよんでいきましょう。
一連、
話者がふくろうという人物を見て語っています。
心理的にやや突きはなして、
どちらかというとやや客観的に、
夜の森を見張るふくろうの様子を語っています。
「外の目で語る」といいます。
肉食特有のくちばし、
かぎ型のいかついくちばしが印象的です。
ふくろうは森の王者と言われます。
尊厳にあふれる、いかつい姿を想像します。

二連、
人物の心の中、
実は新米パパになろうとする
ふくろうの気持ちを
心理的に寄り添うように語ります。
「内の目で語る」といいます。
一連のいかつい姿とはうらはらに、
父親になろうとするふくろうは、
〈くらい森をみはりながら〉
内面ではこんなやさしい考えごとをしています。

いかつい、かつ、やさしい。
相反する二つが同居しているのです。
いかついからこそやさしい。
やさしいからこそいかつい。
こわそうに見えて、
実はこんなことだったりします・・・。
だから、新米パパのふくろうに幸あれ!

作者の松谷みよ子さんは、
民話・昔話の世界で
知らない人はいない、第一人者です。
「ぼうや~よいこだ ねんねしな~」
テレビでおなじみだった、
「まんが 日本昔話」の監修も彼女の仕事です。 

読者である子どもたちは、
詩や物語など文芸作品の世界にふれて、
そこで、いろいろな人物に出会います。
この詩の人物は、
見た目のこわさとはうらはらに、
とってもやさしいふくろうでした。
反対に、
 いっけんやさしい人のようだけど、
ほんとうはこわいこわい人物が登場するような
文芸作品もあります。
 わくわくしながら、
どきどきしながら、
めったに出会うことの無い
いろいろな人生の疑似体験をしているのです。
 
ところで、
わたしがはじめて父親になった日は、
8月の終わりでした。
もう30年以上前のことになります。
飛行機に乗って、
勤務する徳之島へ向かう日でした。
朝早く生まれたわが子を見て、
写真をガラス越しに撮って、
急いで空港行きのバスに乗り、
ささやかなお祝いとして、
「チチ」というカクテルを、
空港ビルで飲んだのを覚えています。
実に安直なごろあわせ、単なるダジャレ!
この日がまちがいなく、
わたしの「オヤジ」デビューだったと確信します

比べるに、
この詩の「ふくろう」は、じつにしぶい。
かっこいいです。

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