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谷川俊太郎 空に小鳥がいなくなった日

 空に小鳥がいなくなった日                                 
   
           谷川俊太郎 


森にけものがいなくなった日

森はひっそり息をこらした

森にけものがいなくなった日

ヒトは道路をつくりつづけた



海に魚がいなくなった日

海はうつろにうねりうめいた

海に魚がいなくなった日

ヒトは港をつくりつづけた



街に子どもがいなくなった日

街はなおさらにぎやかだった

街に子どもがいなくなった日

ヒトは公園をつくりつづけた



ヒトに自分がいなくなった日

ヒトはたがいにとても似ていた

ヒトに自分がいなくなった日

ヒトは未来を信じつづけた



空に小鳥がいなくなった日

空は静かに涙ながした

空に小鳥がいなくなった日

ヒトは知らずに歌いつづけた

      「地球へのピクニック」教育出版センター

【 仮定する、仮説で考える 】
※「もしも~~だったら」と考える方法を
「仮定」と言い、そうした話法を「仮説」と呼びます。
こうすることで、
現実の置かれた条件や意味
現実をふまえた未来の姿を
より深く捉えたり。肉付けしたりすることができます。

この詩の特徴は、
各連の奇数行に仮説があることです。
〈ヒト〉の営みが
〈森〉から〈けもの〉を、
〈海〉から〈魚〉を、
〈公園〉から〈子ども〉を、
終いには〈ヒト〉から〈自分〉まで
奪うことを予見し
シニカルに批評します。
終連での〈空〉の〈涙〉と〈ヒト〉の姿の対置も
強い印象を残します。

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テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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三好達治 土


 
一瞬のうちに映像を切り替える、
私たちが持っているすばらしい能力です。
 「ことば」が創るイメージの世界に、
詩人たちは挑戦を続けます。



   土
          三好 達治

蟻が
蝶の羽をひいて行く
ああ
ヨットのようだ
         
三好達治
『少年少女のための日本名詩選集12』
あすなろ書房

【 比喩のおもしろさ 】

「アリって働き者だなあ」
そういう感想を持って眺める子もいるでしょうし、
「蝶はどこへ連れて行かれるんだろう、怖いなあ」
こんな思いで眺める子もいることでしょう。

(蟻)がおそらくは死んでいるか、
抵抗できないほど弱っているかの、
〈蝶〉を巣に運んでいく作業。
〈蝶の羽をひいて行く〉様子。
現実の、
日常の、
ありふれたできごと。
だれもが一度は見たことのある光景を描いた詩です。
話者はその様子を
〈ああ
ヨットのようだ〉
と表現します。
ちょうど、
片方の羽が立ったような状態のままで
運ばれていたのでしょう。
するすると
地面をすべるように動いていく様子、
それがまるで、
海面や湖面をすべるヨットのように見えた、
〈ああ
ヨットのようだ〉
うまく捉えた比喩表現です。
もちろん、
この詩の魅力は
ここに留まるものではありません。
詩の世界・文芸の世界では、
比喩表現によって、
しばしばおもしろい現象が引き起こされます。

ひとつには、
「喩えるものと
喩えられるものの
関係が逆転する」
 (冬の章 
黒田三郎『紙風船』のページを
参照してください。)

ふたつには、
「喩えに使ったものが、
別な他のもののイメージまでも
引きずってくる」
 (みんながよく知っている
レオ・レオニ作『スイミー』では、
  ちいさな魚のきょうだいたちが暮らす海に、
    おおきなマグロが
ミサイルみたいなはやさでにつっこんできた。
    という比喩があります。
本来はスピード感を表すための比喩ですが、
    ミサイルの持つ、
爆破=生活の破壊・多くの死というイメージを
    同時にひきずって来て、
二倍三倍の怖さを感じさせます。)

みっつめには、この詩がそうなのですが、
「喩えに使うものが、
場面全体のイメージまで一気に変えてしまう」
ということがあります。

この詩で
〈蟻が
 蝶の羽をひいて行く〉
様子を
〈ああ
 ヨットのようだ〉
と喩えて表現します。
この比喩によって、
本来は「土」と題された、
土の上で繰り広げられていたはずの
場面=世界が、
一瞬のうちに、がらりと、
海や湖などの
場面=世界に変わっていくのです。
〈ヨットのようだ〉
と、喩えたために、
眼前での卑近な、
ミニマムな世界が、
広大な視野が広がる、
マキシマムな世界に
変貌を遂げていくのです。
現実は、
蟻が死んだ蝶を運んでいるのにすぎないのだけど、
その現実をはるかに超えて、
青い大海原を静かにすべるように進む
ヨットが目に浮かぶ。
死んでいるはずの蝶なのに、
生命の躍動感・たくましさを感じる。
おそらく、
スーパーコンピューターでも計算できないような、
イメージの豊かさ
発想の柔軟さ
切り替えの速さ
を、持つわたしたちの脳。
ことばの持つ力の
すばらしさを思わずにはいられません。
ちなみに、
比喩表現ではありませんが、
次の詩も読んでみてください。
感動をもって読める詩ではないかと思います。

クサッパラ
    
イケダ ショウゾウ(小1)

アア、
クサガヌッカ。
ニェガスット。

(注) ヌッカ あたたかい
ニェ  におい
スット するよ

この詩は、
戦後まもないころに、
鹿児島で生まれた有名な児童詩です。
戦争はおわりました、
恐怖は去りました。
しかし、
人々の生活はきびしく、
子どもは一家の貴重な働き手でありました。
ショウゾウさんはきっと、
牛や馬など家畜の世話をしていたのでしょう。
草や稲わらで家畜を育てる、
敷きわらに吸い込まれた
家畜の糞と尿が
素晴らしい肥しになる、
その肥しが畑や田んぼにすきこまれる、
豊かな土壌から野菜や米がとれる、
野菜やお米が育つ間に、
畑や畔の草を刈りとり、
稲わらは家畜の餌になり、
育った家畜は市場で売れて、
一家の糧になり、
子どもの本やノート代になり・・・、
当時の鹿児島は、
こういう小規模な農家がほとんどだったのです。
こうした生活背景から、
この詩は生まれました。
一年生のショウゾウさんは、
今日もその小さな手で鎌を持ち、
刈りとって運んできた草を、
家畜に声をかけながら食べさせ、
ふんと尿にまみれた重たい敷きわらを運びだし、
新しい稲わらを敷いてやったのです。

それでも子どもは子ども、
遊びたい盛りです。
青い草原に体をなげだし
、積み上げた草にもぐり・・・。
そのとき、
ふと感じたクサのぬくもり――
ふくいくとしたクサのにおい――
たった三行の、子どものつぶやきです。
しかし、
はかり知れないほどの
奥行き
広がり
深さを感じます。
ショウゾウさんもすごいと思いますし、
この三行を「詩」ととらえた、
ショウゾウさんの先生も
すごいなあと思います。

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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尾形亀之助 ある来訪者への接待

題名は作者が付けるものです。
  この詩では、
話者(語り手)の語ることばは意味不明です。
  しかし、作者が題名を付けたことで、
  まるで魔法をかけられたみたいに
意味を与えられ、
いきいきと世界を描くことになりました。
  
ある来訪者への接待

             尾形 亀之助

どてどてとてたてててたてた
たてとて
てれてれたとことこと
ららんぴぴぴぴ ぴ
とってんととのぷ

んんんん ん

てつれとぽんととぽれ

みみみ
ららら
らからからから
ごんとろとろろ
ぺろぺんとたるるて
              『尾形亀之助全集』(思潮社)

【 意味を汲む・酌む? 】

香山美子さんの詩
『おきゃくさま』
と並べて読むと、
より一層楽しいんじゃないでしょうか。
わたしにとっては、
個人的な理由でも大好きな詩です。

この詩は題名を伏せてしまうと、
意味不明です。
一つとして意味のあるセンテンスはありません。
ちょっとおおげさかもしれませんが、
読者の人生の全てを注ぎ込んで
意味を汲み取る(酌み取る)
覚悟が必要になるかも知れません。

ことしの冬は寒さが厳しかったです。
南国の鹿児島でも、
けっこう雪が積もりました。
びっくりです。
でも、
寒い冬は、
お酒作りに朗報です。
年末に農家の方に分けて頂いた酒母をもとに、
蒸した米と麹と水を加えて、
くり返すこと三回。
6L程、濁り酒を仕込みました。
濁り酒とは言うものの、
清酒と同じ三段仕込みです。
一日に一回おたまでかき回すこと、二週間。
アルコール度数が20度ほどになる、
かわいいかわいいお酒ができました。
(個人的に楽しむ酒造りは
違法ではありません。念のため・・・)

ほどよく酔いがまわってくると、
「読者の人生の全てを注ぎ込んで意味を汲み取る」
まあ、
それほどの覚悟がなくても、
詩の意味が明解になる私です。
しょせん、
ひとりよがりの世界なのですが・・・。
ですから、
意味をくむというとき、
わたしの場合、
「汲む」より
「酌む」方が合っていると思います。

一連は、
あわただしく来客の準備をする
 みたいな?
廊下を走り回る音や
あれこれと言い合いをする声が聞こえてきます。

二連は、
やあよくきたねえ、
まあ、あがれや
 みたいな?

三連は、
酒を酌み交わし、
笑い合って。
酩酊して・・・
みたいな?
果てには、いびきまで・・・・
みたいな?
こんなだらしのない、
飲んべえなふたりを、
あきれ顔で、
腰に手を当てて見ている、
連れ合いさんの、
・・・・・・・・。
長く深~いため息が、
聞こえてきそうです。

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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香山美子 おきゃくさま

ユーモアという楽しい体験をしながら、
たいせつなことを学べる詩です。
ユーモアを感じるセンスを育てることも、
たいせつなのです。
  
おきゃくさま
             
          香山 美子

おきゃくさまは
エヘン
ドアのまえで
エヘン
それからすまして
ベルをおす

おきゃくさまは
どうも
いすにかけて
どうも
それから ぼうやに
おみやげだ

おきゃくさまは
なるほど
お茶をのんで
なるほど
それから とけいみて
いずれまた

おきゃくさまは
では
くつをはいて
では
それから タクシーで
いっちゃった

香山美子『おはなしゆびさん』 国土社


【 誰の目から語っているか 】

この詩の話者(語り手)は、
〈ぼうや〉と呼ばれている
「ぼく」です。
まだ幼いであろう
「ぼく」の目から見た、
〈おきゃくさま〉と家の人との、
応対の様子を語っている詩です。
いろんなところに
クスリと笑ってしまうような要素があります。

尾形亀之助さんの詩
『ある来訪者への接待』と、
比べて読むことを薦めています。

まずは、
〈おきゃくさま〉の、
言っていること・していることを
拾い上げてみましょう。
〈エヘン〉
〈どうも〉
〈ぼうやに おみやげだ〉
〈なるほど〉
〈いずれまた〉
〈では〉
まあ、とりとめのない、
言うならばどうでもいいことだらけです。
でも、ここで注意!
これらは、どれもこれも、
〈おきゃくさま〉の
言ったこと・したことではなく、
〈ぼうや〉の
聞いたことば・見た様子
なのです。
詩や物語を読むときに大事にしたいのは、
誰の目から語っているかという、
視点・視覚の問題です。

おそらく大人にとっては、
大事な関係をつなぐための
来訪なのでしょう。
わざわざ家に来るくらいですから、
話には
重要な内容があったかもしれません。
でも、
内容についていけない
〈ぼうや〉には、
こんなふうな
断片的な記憶しか残らなかったのでしょう。
はっきりしているのは、
〈おみやげ〉
だけかも知れません。
状況を理解できない、
「ぼく」の幼さそのものを、
「まあ、しょうがないかな」
と、クスリと笑うことができます。
このときの読者は
〈ぼうや〉を、
心理的に、
やや突き放した状態でながめています。

もう一方で、
〈ぼうや〉
の目と心に重なって、
つまり読者が
〈ぼうや〉
と同じ気持ちになって、
〈おきゃくさま〉
のことを見て語ることもできます。
そうなると、
話者も幼さゆえに、
つまり、分からないわけですから、
どんなに大事な話だったかどうか、
どうでもよい話だったのかどうか、
読者の我々には、
うかがい知ることはできません。
ただ目に映るのは、
いかにも形式的な、
うわべにすぎない、
とりとめのない、
なんのために来たのか分からない、
大人の世界、来訪の様子です。
「おとなって、へんなの」と、
クスリと笑うことができます。

またもう一方で、
まるっきり客観的に読むと、
我が家の客人に対して、
この詩のように、
ぞんざいな応対をついついしてしまう
自分自身のありがちな姿を
鏡に映し出されたような思いで、
クスリと苦笑いしながら、
ふりかえることもできます。

「勝手耳」という言い方があります。
なにごとも
自分の都合のいいようにしか聞けない
それが「勝手耳」(かってみみ)です。
なにごとも自己中心にとらえてしまうと、
誤りのもと。
いろいろな立場や角度から
捉える訓練が大切だろうと思います。
自戒を込めてこの詩を読んでいます。

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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山之口獏 歯車


詩では、ひとまとまりを「連」と言います。
この詩は、「連」に分けられていません。
その代わり、
最後の一行が
最初の一行に戻るような
読み方を仕向けています。
堂々めぐりをしながら、
くり返し自分に問い返してみましょう。


歯車
             
        山之口 貘

靴にありついて
ほっとしたかとおもうと
ずぼんがぼろになっているのだ
ずぼんにありついて
ほっとしたかとおもうと
上衣がぼろぼろになっているのだ
上衣にありついて
ほっとしたかとおもうと
もとに戻ってまた
ぼろ靴をひきずって
靴を探し廻っているのだ              
     
山之口貘『山之口貘全詩集』第1巻 思潮社

【いつの間にやら 
ジングルベルが鳴り 
こうしちゃおれぬと・・・ 】

只、慌てふためいて、
ろくなことは何もないまま一年が終わり、
そしてまた同じように次の一年が始まるという、
さえない男のブルースです。
堂々巡りして過ぎる悲しさと、
そんな貧しい境遇から、
どうしても抜け出せないもどかしさ。
山之口貘もたいそう貧乏だったとか・・・。

「歯車」
と名づけられたこの詩は、
実物の歯車がそうであるように、
最後の一行が、
最初の一行に再び還ってきます。
そう、
歯車の環のように堂々巡りをするのです。
「歯車」によく喩えられるのは
「労働者」。
チャップリンの
『モダンタイムス』という映画がありました。
ネジを締めながら、
どんどん歯車の中に
取り込まれていくシーンが印象的でした。

〈ぼろ靴をひきずって
靴を探し廻っているのだ〉

〈靴にありついて
ほっとしたかとおもうと
ずぼんがぼろになっているのだ〉

言うなれば、きりのない世界です。

〈ずぼんにありついて
ほっとしたかとおもうと
上衣がぼろぼろになっているのだ〉

この環から一歩も抜けることのできない、
いつまでも、ここからは抜け出せない。
今という時代も深刻な不況で、
職探しさえ難しい。
小林多喜二の「蟹工船」が
再びベストセラーになっています。

シバというブルースの歌い手がいます。
日本人です。
いつもは絵描きさんです。
これまでに「青い空の日」など、
数枚のレコードを出しています。
ギターとハープ(ハーモニカ)で、
アフリカから連れてこられた
奴隷たちの苦しみが生み出した音楽を
味わい深く聴かせています。

学生の頃、
彼のコンサートを企画したことがあります。
無謀としか言いようがありません。
観客を集めきれず、
400名ほどのホールに50名ほど・・・
友だちに借金しても、
飛行機代とわずかなギャラを払うのがせいいっぱいで、
ホテルどころか、
自分の三畳一間のアパート、
せんべい布団にむりやり泊まってもらいました。

孤高のフォークシンガーと呼ばれる、
高田渡の曲の中に、
~~ギャラより高い交通費、
大きい袋は交通費、
小さい袋は出演料、
おもしろそうに泳いでる。~~
というのがあります。
たしか、
「屋根より高い鯉のぼり」のメロディでした。
ためしに、口ずさんでみてください。

まさに、
このまんまの世界で、
随分とシバさんに、
失礼な思いをさせてしまったと後悔しています。

それでも、
くさる素振りもなく、
我々のとりとめのない話を聞いて、
いっしょにお酒を飲んでくださいました。
そのふところの深さに感謝しながらも、
申し訳ないという気持ちで一杯でした。
もちろんその後、
赤字・穴を埋めるためのバイトがたいへんでした。
今も残るほろ苦い記憶です。

この詩を読むと、
~~いつの間にやらジングルベルがなり、
こうしちゃおれぬと職探し~~
というシバさんの歌の一節が聞こえます。
この歌詞も、
堂々巡りをするしかない
庶民の生活を表現しています。
高田渡さんが、
この「歯車」という詩に曲を付けて歌ったように、
シバさんもまた、
詩人、山之口貘のファンでした。

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