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松谷みよ子 三日月

三日月

          松谷 みよ子

いかついくちばしを胸ふかくさしいれ
くらい森をみはりながら
ふくろうは かんがえる

生まれてくる子には
赤い三日月をとってやろう
上にのってゆうらりゆれたり
ころがしたり
くわえたりしてあそぶだろう
森がそこだけ
ぼうっと ひかるだろう
きのこなんかも ひかるだろう

やがて父親となるふくろうの
いかついくちばしが つぶやいている

  松谷みよ子『びわの実学校25』びわの実文庫

【 三年生の一学期、「じんぶつ」について学ぼう。 】

三年生は、ちょいと難しい時期です。
とくに1学期は、
発達の差と言いましょうか、
個々の「ちがい」に目が向きます。
体格の面でも心の発育の面でも・・・。
いくぶん幼さを残す子がいれば
成長の早さをかなり感じる子もいて、
クラスの中でどちらもすこし目立っています。
とりたてて問題にならなければ、
いずれ「時」が解決する
「差」・「ちがい」なのですが、
担任は、子ども達の成長の幅について、
いくぶんかの心づもりが必要性だろうと思います。
「私のクラスには、
一年生から四年生まで同居しているのだ。」
くらいの気持ちで臨めば、たぶん大丈夫でしょう。
この詩の学習で三年生に学んでほしいのは、
友達や家族や先生といった身近な存在も含めて、
その人・相手をどう見るかという、
人間の見方・考え方・分かり方の問題です。
三年生ですから、
いずれ近いうちに、
自分自身を客観的に見られるようになってほしいわけですが、
この詩の学習で準備ができたらいいなと思います。

【 言っていること、していること 】
〈ふくろう〉という人物について考えましょう。
〈ふくろう〉は鳥です。
人間ではありません。
でも、詩の中では、「じんぶつ」です。
人間のようにもの思いにふけっているからです。
詩や物語の世界では、人間のように
話したり考えたりふるまったりする、つまり、
(人間のような言動をする)
存在は「じんぶつ」と呼ぶのだと、
一年生のうちからきちんと教えましょう。
さて、
「じんぶつ」をとらえる方法の基本はと言うと、
やはり、
言っていること・していることを見ていきます。
この「じんぶつ」のとらえ方も、
できれば一年生からきちんと教えましょう。
ところで、
ときどき面白いことがおきます。
言っていることと
していることが
ずれてしまっていたり、
すごいときは逆になってしまったりするのです。
ほんとうは、どんな「じんぶつ」なのか、
悩み、考えはじめるように作者が仕掛けてくるのです。
では、詩をよんでいきましょう。
一連、
話者がふくろうという人物を見て語っています。
心理的にやや突きはなして、
どちらかというとやや客観的に、
夜の森を見張るふくろうの様子を語っています。
「外の目で語る」といいます。
肉食特有のくちばし、
かぎ型のいかついくちばしが印象的です。
ふくろうは森の王者と言われます。
尊厳にあふれる、いかつい姿を想像します。

二連、
人物の心の中、
実は新米パパになろうとする
ふくろうの気持ちを
心理的に寄り添うように語ります。
「内の目で語る」といいます。
一連のいかつい姿とはうらはらに、
父親になろうとするふくろうは、
〈くらい森をみはりながら〉
内面ではこんなやさしい考えごとをしています。

いかつい、かつ、やさしい。
相反する二つが同居しているのです。
いかついからこそやさしい。
やさしいからこそいかつい。
こわそうに見えて、
実はこんなことだったりします・・・。
だから、新米パパのふくろうに幸あれ!

作者の松谷みよ子さんは、
民話・昔話の世界で
知らない人はいない、第一人者です。
「ぼうや~よいこだ ねんねしな~」
テレビでおなじみだった、
「まんが 日本昔話」の監修も彼女の仕事です。 

読者である子どもたちは、
詩や物語など文芸作品の世界にふれて、
そこで、いろいろな人物に出会います。
この詩の人物は、
見た目のこわさとはうらはらに、
とってもやさしいふくろうでした。
反対に、
 いっけんやさしい人のようだけど、
ほんとうはこわいこわい人物が登場するような
文芸作品もあります。
 わくわくしながら、
どきどきしながら、
めったに出会うことの無い
いろいろな人生の疑似体験をしているのです。
 
ところで、
わたしがはじめて父親になった日は、
8月の終わりでした。
もう30年以上前のことになります。
飛行機に乗って、
勤務する徳之島へ向かう日でした。
朝早く生まれたわが子を見て、
写真をガラス越しに撮って、
急いで空港行きのバスに乗り、
ささやかなお祝いとして、
「チチ」というカクテルを、
空港ビルで飲んだのを覚えています。
実に安直なごろあわせ、単なるダジャレ!
この日がまちがいなく、
わたしの「オヤジ」デビューだったと確信します

比べるに、
この詩の「ふくろう」は、じつにしぶい。
かっこいいです。

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テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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新美南吉 牛


              
新美 南吉

牛は重いものを曳(ひ)くので、
首を垂れて歩く。 
                 
牛は重いものを曳くので、
地べたをにらんで歩く。

牛は重いものを曳くので、
短い足で歩く。

牛は重いものを曳くので、 
のろりのろり歩く。
                          
牛は重いものを曳くので、      
しずかな瞳で歩く。 
         
牛は重いものを曳くので、       
輪の音をききいりながら歩く。
   
牛は重いものを曳くので、       
首を少しずつ左右にふる。 
      
牛は重いものを曳くので、
ゆっくり、たくさん食べる。
     
牛は重いものを曳くので、      
だまって反芻している。
      
牛は重いものを曳くので、      
休みにはうっとりしている。
                   
 新美南吉『新美南吉全集』第6巻 牧書房
 

【 四年生、秋が深まる頃に。 】
小学校四年生が学習する童話
『ごんぎつね』の作者、新美南吉の詩です。
新美南吉は、夭折の作家ですが、
珠玉の名作をわたし達に残してくれました。

ひとつの作品を学習した後で、
同じ作家の他の作品を続けて読むよう促す指導は、
たいへん効果的だと言われます。
複数の作品を通して、
その作家の持つ人間観や世界観にふれるよい機会となるからです。

運動会や遠足など主要な学校行事が終わり、
クラスの雰囲気がだいぶ落ち着いた頃に、
四年生は『ごんぎつね』を学びます。
秋が深まってきた頃にプレゼントしたい詩です。

【 成長の光と影 】
十歳前後のころ、
子ども達にとって悩ましい問題が、『疎外感』だと言われます。
・仲間に入りたい、
・仲間から外されている気がする、
・自分の悪口を言われている気がする、
・信頼できて、なんでも話せる友達がほしい。
同じような願いや悩みなのです。
それを同世代として共有しているはずなのに、
・次から次に新しい疎外関係を作ってしまう。
・友達に不信感を抱いてしまう、
・自分に否定的になってしまう、
深みにはまり、
修正のきかないような問題になってしまうケースも少なくありません。
成長という輝かしい光にひそむ影とでも形容できる、
誰にも起こりううる事態なのです。

担任の先生の目には、そういう不安がよく見えます。
ですから、その子に声をかけるように努め、
できるだけまわりの子も巻き込むようにしていっしょに悩みます。
だいじな成長の時期だからこそ
子ども達の不安を敏感に関知して取り組むのです。
こうした「外からの働きかけ」がその子を励まし、
問題の解決につながる大切な支援となります。

一方で、「内からの働きかけ」も育てたいところです。
ひと言で言うならば
「自信」
「開き直り」
「自分が自分であることへの肯定感」でしょうか。
誰かに評価されるのでなく、
誰かの目を意識するのでもなく、
ありのままの自分を見つめられる。
自分を肯定できる。
そういう経験の積み重ねが、
内側から生きる勇気を生むのではないでしょうか。

そのために、
この詩の学習を通じて成長を促したいと思います。
人間をどう見るか
生きることをどう捉えるか
これはすぐに答えられるものではありません。
けれど、その問題を考えるための方法ならどうでしょう。
考える手だて、思考・認識の方法ならどうでしょう。
そこに焦点を当てて授業を進めていきたいと思います。

【 くり返しをとらえると 】
各連の一行目が、
必ず〈牛は重いものを曳くので、〉をくり返す、
そういう特徴のある語りです。
まず手始めに、
一行目と二行目の間に、
どういうつなぎ言葉(接続語)を入れたら良いか、
意見を聞いてみましょう。
おそらく、「だから」「それで」が他を圧倒するはずです。
・「○○ので、□□だ。」
これはつまり、
理由を述べる語り方、因果の関係でつなぐ考え方です。
そういう「つもり」で、
各連につなぎ言葉を当てはめて読むと、
一連〈牛は重いものを曳くので、〉
だから〈首を垂れて歩く。〉
二連〈牛は重いものを曳くので、〉
だから〈地べたをにらんで歩く。〉
三連〈牛は重いものを曳くので、〉
それで〈短い足で歩く。〉
いちいちその理由に同意して、
いちいち頷きながら読むことになります。
話者の語りに身を預け、
あらゆる話者の意味づけを信じて
疑わずに読み進むというわけです。

このくり返しから、
〈牛〉のあらゆる行為には
〈牛は重いものを曳くので、〉という理由がある、
いつでもどこでもかならずそういう結果になる。
理由と結果が、
イコールで結ばれるような関係がある。
そういうイメージが強調されます。

【 条件的な見方・考え方で読むと 】
各連の一行目が、
必ず〈牛は重いものを曳くので、〉をくり返す、
そういう特徴のある語りです。
特徴的な表現は、
伝えたい内容と深く関わる場合が多いものです。
わざわざ、こだわっているのですから、
読者も、同じようにこだわって読むべきでしょう。

そこで提案したいのが、
〈~ので〉を〈~のに〉に換えて条件的に捉える思考方法です。
・「他ならぬ○○のときなので、□□だ。」
・「外ならぬ○○の場合は、□□だ。」
この条件的な捉え方、
「ときとばあいによる」という考え方を、
子ども達にぜひ身に付けてほしいのです。
条件をはっきりさせるためには、
仮定的な問いを返してみると分かりやすくなります。
まず、〈牛は重いものを曳くので、〉の、
〈ので〉の部分に、〈のに〉のカードを貼り付けます。
そうして、各連を両方の読み方で試しながら進んでいきましょう。

一連〈牛は重いものを曳くので、〉〈首を垂れて歩く。〉
一連〈牛は重いものを曳くのに、〉〈首を垂れて歩く。〉
どうでしょうか。
「〈~ので、〉のときはこうだけど、
〈~のに、〉のときはこう思う。」
そういう発表話型になってきます。
友達の考えと自分の考えを比較して、
違和感を覚えたり、
まあいいかなと同意したりしながら、
学習を進められるようになるのです。

四連〈牛は重いものを曳くので、〉〈のろりのろり歩く。〉
四連〈牛は重いものを曳くのに、〉〈のろりのろり歩く。〉
「もっと急いで歩けばいいのに」とか、
「そうしたいけど無理なんだって」など、
牛の気持ちに同化する発表や
ちょっと冷たく突き放す=異化する意見
が出てきたら、「しめた!」。
授業が盛り上がってきている証拠です。

五連〈牛は重いものを曳くので、〉〈しずかな瞳で歩く。〉
五連〈牛は重いものを曳くのに、〉〈しずかな瞳で歩く。〉
どちらも、ぴったり合う表現のように思えます。
どちらにも余韻があります。
両方を比べながら、
自分なりの意味づけをした発表が出てくることを
楽しみにしましょう。

七連〈牛は重いものを曳くので、〉〈首を少しずつ左右にふる。〉
七連〈牛は重いものを曳くのに、〉〈首を少しずつ左右にふる。〉

九連〈牛は重いものを曳くので、〉〈だまって反芻している。〉
九連〈牛は重いものを曳くのに、〉〈だまって反芻している。〉
だんだん〈牛〉の姿が前とはちがって見えてくることでしょう。
〈牛〉の姿に〈人〉の姿がかぶさってくるのです。
確かに
〈牛〉なのですが、
〈牛〉なのに、
なにかしら重たいものを背負って生きている
そういう〈人〉のイメージを彷彿とさせるのです。

さて、
〈~ので〉を
〈~のに〉と言い換えて読み比べてきました。
このように、
話者の語りから少し距離を置いて、
意図的に読む方法もあるのです。
ときには、
話者を疑いながら読む場合さえあることも知るのです。
「感じとしては、
〈~ので〉の方が合っているかな」
「でも、よく考えると、
やっぱり〈~のに〉の方がぴんとくるかな」
と、立ち止まったり、行ったり戻ったりしながら、
読んで・考える姿が生まれます。
そこに「正解」を求める必要はありません。
おもしろく味わい深く読むことです。
百人百様の「自問自答」が生まれることを期待しましょう。

【 牛をどうみるか、人間をどうみるか。 】
各連の一行目が、
必ず〈牛は重いものを曳くので、〉をくり返す、
そういう特徴のある語りです。
もし、そういう言われ方を
〈牛〉でなくて自分がされたらどうでしょうか。
「彼の言動のすべては、こういう理由だからだ。」
分かりやすさの一面と同時に、
通り一辺倒・紋切り型の
解釈・判断に陥ってしまう危険があります。
単純で明快なだけに、
かえって害をなす場合もあるようです。
決めつけて語る、
レッテルを貼って見てしまう。
「疎外関係」が始まる源に、
こういう未熟な思考パターンが確かに存在しています。

相手の立場や
置かれている状況を考える。
一方的な判断や
(身勝手な判断)をお互いにくり返さない。
そのためには、
条件的なものの見方・考え方、
仮定的なものの見方・考え方が必要なのです。
(『ごんぎつね』でも、
ごんと兵十の気持ちが
通い合わないシーンがくり返し描かれます。
理解し合うことなく、
むしろ誤解を受け、
疎外され、
悲痛な結果を招きます。)

ところで、
〈牛は〉のところを
〈人は〉と置き換えて読むとどうでしょうか。
あるいは、

分や家族のだれか、
友だちなど
と置き換えて読んでみたらどうでしょうか。
これもまた正解などない自問自答の世界です。
正解は出なくとも、
「ああでもない、こうかも知れない。」
と、幅広く考えようとする態度は間違いなく育ちます。
おそらく「思い遣り」の心を育てるのは、
こういうことのくり返しかなと思います。
こういう読み方をして感想を書く子がいたらどんなに素敵でしょう。

「ほかならぬ、こういうときとばあいなので、・・・」
この条件的な思考・認識の方法は、
三・四年生の最も重要な課題です。
科学で使うピンセットに喩えられる、思考の方法です。
ぜひ、このピンセットを子ども達に持たせてみましょう。

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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高見順 われは草なり

 文語調の詩ですから、小学生には、ややとっつきにくいと言われます。
 肩の力をぬいて授業を楽しめるような、アイデアを紹介しましょう。


われは草なり   

高見 順

われは草なり
伸びんとす
伸びられるとき
伸びんとす
伸びられぬ日は
伸びぬなり
伸びられる日は
伸びるなり

われは草なり
緑なり
全身すべて
緑なり
毎年かはらず
緑なり
緑の己に
あきぬなり

われは草なり
緑なり
緑の深きを
願ふなり
ああ 生きる日の
美しさ
ああ 生きる日の
楽しさよ
われは草なり
生きんとす
草のいのちを
生きんとす
             『高見順詩集』(彌生書房)

【 わたしたちのバイリンガル 】
「格調高い」と言われる、
文語調のすばらしい詩です。
七音と五音の繰り返しですから、
リズム感があり音読にも適しています。
「舌頭に千転せよ」と古来より伝わるように、
まずは何度も何度も何度も読んで、
すっかり覚え込んでおいて、
解釈や意味づけは、
人それぞれの成長に合わせてゆっくり考えていけばよろしい。
こんなふうに「指導書」や「解説書」が
のんびり言ってくれれば安心ですが、
現実にはとてもとても・・・・

小学生ですから、
そもそも文語調になじみが薄い、
だから、
意味が分かりにくいということがあります。
教える側としても、
古典の授業ではないのから戸惑いがあります。
「とっつきにくい」の印象が
子どもにも教師にもあるということから、
難しい・やりにくい・おもしろくない・・・・
「詩の楽しみ方を見つけよう」なのに、
アイデアが湧かない、どうしよう・・・
「読ませて、覚えさせて、終わりましょうか・・・」
という感じになりがちです。

「そんなお悩みをお持ちのあなたに、
ぴったりの方法がありま~す。」
通販のキャッチコピーみたいで気味が悪いですね。
このような「どや顔」の紹介は我慢できません。

ただ、
先日何人かでこの詩の授業を検討しました。
そこで閃いた方法を紹介します。
まだ実際に授業を通じて検証をしていませんので、
「なんだか、うまくいくような気がするような気がしないでもないな」
「なるほど、まあ、こういうやりかたもありかな、まあ、まあ、」
くらいの気持ちで、
これから紹介する方法におつきあいください。

ところで、
「わたしたちのバイリンガル」というのは、
いわゆる方言のことを言っています。
わたしたちは、
「方言」と「標準語」という二つの言語を
状況に応じて使い分けています。
つまりわたしたちは「バイリンガル」な存在なのです。
超かっこいい!!
「この詩を口語訳してみましょう」
「早く終わった方は、
暇つぶしにお国言葉でさらに訳してみましょう」
こんな発問をきっかけにしましょう。
ちなみに一連は、こんなふうになります。

〈われは草なり〉
「わたしは草であります」
『おいは草ごわんど』
〈生きんとす〉
「生きようと思っています」
『生きぃごっあっど』
〈伸びられるとき〉
「伸びることが可能なときは」
『伸びぃがなっときゃ』
〈伸びんとす〉
「伸びようと思います」
『伸びぃかぎぃ伸びっとぉ』
〈伸びられぬ日は〉
「伸びることができない日は」
『伸びぃがならん日は』
〈伸びぬなり〉
「のびないのです」
『伸びんとぉ』
〈伸びられる日は〉
「伸びられる日には」
『伸びぃがなっ日は』
〈伸びるなり〉
「伸びるのです」
『伸びっとぉ』

わたしは鹿児島弁(かごいまべん)と
標準語(ひんつけことば)のバイリンガルです。
〈 〉は古文調の原文、
「 」は口語文で標準語、
『 』は方言となっています。
たまたまその会に宮崎出身の方もいらして、
かわいい宮崎弁訳も披露してくださいました。
また、いわゆる「男ことば」の方言に対し、
「女ことば」の方言訳もありました。
(言葉遣いで「男」「女」を分けてしまう意識が
このようにして作られてきた歴史もあったのです)
原文を口語訳するときには、
微妙なニュアンスをどう表現するかでも盛り上がります。
たとえば、
〈生きんとす〉の〈ん〉は、
もともと〈む〉という意志を含む言い方です。)
次に方言訳は、
どんな世代の話者を設定するかという話題でも、
おおいに盛り上がりを見せました。
同じことを言い表すにも、
老人・子ども・若者・壮年などで言い回しが違います。
(子どもたちが方言を知らないときは、
持ち帰らせて調べ学習にする手もあります)
さまざまなアイデアや工夫次第で、
愉快な「詩の楽しみ方」が見つかることだろうと思いました。

次に内容のことも考えてみました。
一連が、
「条件にあわせて」「伸び方がちがう」ということならば、
二連は、
「草が緑であることの本質的な意味」?
つまり、
「光合成で生長結実を果たすためには、
緑であることが何よりも大切なこと」?
三連では、
「自分であることの肯定感」
「自己を全うする、ほとばしるほどの喜び」
こういう意味づけやそのための話し合いが、
さほど抵抗なくできるようになりました。

はじめは「とっつきにくい詩」でしたが、
どこかに「手がかり」があるものです。
このような「手だて」次第で
「楽しい詩」「大切な意味を学ぶ詩」になりそうです。
「手がかり」や「手だて」を、
何人かで考える作業と時間、
その日の研究会はとても充実していました。

お盆や正月に里帰りすると、
方言で思いっきり喋ることができます。
おさななじみにばったり出会うと、
もう、かごんま弁全開モードに切り替わります。
石川啄木が
〈なまりなつかし 停車場に・・・〉
と、詠んだ気持ちがよく理解できます。
方言ばんざい!
バイリンガルばんざい!

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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鶴見正夫 雨のうた


 詩は、いろいろなもの・ことを題材にします。
 でも、なんだか人間のことを言っているように感じます。 
 《文芸作品は題材が様々であっても、結局のところ人間を描く。》
 そう教わりました。
 この詩を読むと、なるほどそうだと思います。

   雨のうた 
        
          鶴見 正夫

あめは ひとりじゃ うたえない、
きっと だれかと いっしょだよ。
 やねと いっしょに やねのうた
 つちと いっしょに つちのうた
 かわと いっしょに かわのうた
 はなと いっしょに はなのうた。

あめは だれとも なかよしで、
どんな うたでも しってるよ。
 やねで とんとん やねのうた
 つちで ぴちぴち つちのうた
 かわで つんつん かわのうた
 はなで しとしと はなのうた。

             鶴見正夫『雨ふりくまのこ』 国土社

【 ひびき合う関係を作りあげる 】
題名が示すように、
「雨」という人物が「うた」をうたっています。
「うた」ですから、リズムが大切です。
 ・あめは(3音)
 ・ひとりじゃ(4音)
 ・うたえない(5音)
 ・きっと(3音)
 ・だれかと(4音)
 ・いっしょだよ(5音)
    ~
 ・はなで(3音)
 ・しとしと(4音)
 ・はなのうた(5音)
ずっと、3・4・5のリズムがくり返されます。
 ・やね・つち
・かわ・はな・・・
応ずる人物たちも2音のものが選ばれています。
ここが3音や4音だったりするとリズムが崩れてしまいます。
また、
やね・つち・かわ・はなは、
どれも戸外にあるものです。
「あめ」に出会うチャンスが多いのです。
反対に、
「あめ」に出会うチャンスが条件的に考えにくいもの、
たとえば、机とかストーブとかは、
残念ですが、いっしょに歌えません。

さて、この「あめ」という人物、
なかなか魅力的です。
「やね」に出会ったら、
いっしょに「やね」のうたをうたいます。
「つち」とは「つち」のうたをいっしょにうたいます。
「かわ」とは「かわ」のうたをうたいます。
だれとも〈なかよし〉だし、
〈どんなうたでもしってる〉・・・
すごいことです。
きっと、たくさんの引き出しを持っているのでしょうね。
マイケル・ジャクソンの映画
「this is it]
彼のダンスは、
皆をみごとにリードしていました。
オーケストラの指揮と一緒なんだなと感じました。
「あめ」と同じように、
彼も、メンバーひとりひとりの持ち味を引き出し、
ひびき合うすてきな関係をみごとに築いていくのです。
すばらしい才能、すばらしい仕事ぶりです。

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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谷川俊太郎 であるとあるで

であるとあるで

       谷川 俊太郎

であるはであるでなかろうか
であるがでないであるならば
でないはであるになるだろう
でないがであるでないならば
であるはでないでなかろうし
でないであろうがなかろうが
であるはであるであるだろう

あるではあるででうろかなか
あでるがででないあなばるら
いなはであるにでうるだろな
ないでがでるあでいななばら
はあるでなでいでなろうしか
いなでであがろうかながろう
でるはあでるあであだろうる
                 
谷川俊太郎『わらべうた・続』集英社

【 六年生、意見文を書く学習の前後に 】
 作文の学習に
「意見文を書く」という活動があります。
高学年になると、
「総合的な学習の時間」とも関係して、
自分の調べたことをもとに
意見を言う・意見文を書く機会が増えてきます。
そういうときに
何を大事にするべきかという問題を、
楽しく考えさせてくれる詩であるような気がします。

【 対比させて、読みましょう。 】
意味不明の詩です。
一連はまだしも、
この二連はいったい何でしょうか。
切り口として、
最も大切で基本である
「比較(類比・対比)する認識の方法」
を使うことにしましょう。
「なにがくり返されているか」(類比)
「なにが対称的に描かれているか」(対比)
どちらかというと、
「類比」より「対比」の方が分かりやすいようです。
この詩でも、
まず前連(ぜんれん)と後連(こうれん)を
対比させて読んでみましょう。

「前連と後連を
比べて読みましょう。
何がちがうか考えてください。」

前連は、
話者がいろいろと思いを巡らし、
論理的に語っているなという印象を受けます。
それに対して、
後連は
意味をなさないことばの羅列で、
話者が何を言おうとしているかが
さっぱり分かりません。
声に出して読むと、
その対比がいっそう際立ちます。
対比による強調という働きを考えると、
前連より後連の方が強調されることになります。
対比によって後連の印象が強くなる。
強い興味を引き起こすという
詩の構成になっています。

「ちんぷんかんぷん」
意味不明な後連の、
何をそんなに強調しようというのでしょうか。

【 類比させて、読みましょう。 】
 類比を見つけることにしましょう。
まずは、ひとりひとりに尋ねてみます。

「前連と後連で、
似ているものや
くり返されていることを見つけましょう。」

 ・「文字の数がいっしょです。」なるほど、・・・
 ・「どっちも、ひらがなです。」おおっ、・・・
 ・「同じ文字を使っています。」そうか、・・・
 これはこれで、
発展性がないわけではありませんが、
どちらかというと
使われている言葉や字面など、
表面的なことを見ているようです。
もっと、
書かれていることの内容や意味に
踏み込んでみましょう。
鍵は、前連の意味をきっちり見ることです。

「前連で話者が語っている中味を、
かんたんにまとめてください。」
「前連で言っていることを、
べつな言い方にすると、
どうなりますか。」

補助的な発問の後、
今度は前後左右の友達と
話し合うように指示しましょう。
それでも、
まだ難しそうな様子のときは、
一行目と七行目に
傍線を引いてみせる手もあります。
・一行目
〈であるはであるでなかろうか〉
を言い換えると、
「~であるということは、
~であるということでは、ないだろうか」
・七行目
〈であるはであるであるだろう〉
を言い換えると、
「~であるということは、
~であるということで、あるだろう」
つまり、
語っている内容に
たいした変化も発展も見られません。

伝達の目的・手段としての
言葉の役割を、
どちらの連でも放棄しているように見えます。

【 文章を書くときに、心がけること。 】
 文章表現には、
誰が
誰に対して
何を
どういう意図で
どのように語るか
という、本質的な要素が存在します。
当然のことですが
裏返すと、
文章がそれを満たしているか
という評価につながります。
この詩は、どういう評価を受けるでしょうか。
○とくに語るほどの価値のないことを
○わざわざ分かりにくい言い方で
○語っている(書いている)ので
○相手には何も伝わらない
前連からは、
こういうぶざまな姿があぶり出されます。
同じようにして、後連を見てみましょう。
どういう評価がなされるでしょうか。
○何が言いたいのか分からないことを
○まったく分かりにくい言い方で
○語っている(書いている)ので
○相手には何も伝わらない
一連を疑ってみましょう。
ああでもないこうでもないと
屁の付くような理屈を並べますが、

一見論理的なように見えて、
つまるところ
微塵も
これといった内容を伝えていません。

あげくのはてに、
〈であるはであるであるだろう〉
とは、なんといいかげんな態度でしょう。
それならば、
〈でるはあでるあであだろうる〉
の方が、「まだ、なんぼか、まし」と思います。

つまり、
意味のない言葉が並んだだけ
という構図でとらえるとき、
前連と後連は類比している
と捉えることができるのです。
所詮、ドングリの背比べにすぎない。
分かったようなふりをしても、
実はなんにも分かっていない。
前連の分かったようなもの言いは、
後連の分かりようもない言葉の羅列と、
まったくいっしょなのです。
事のついでに一例を挙げるならば、
外ならぬ、わたしの姿。
「三十年以上、西郷先生に学んだ。」
と言っているけれど、
何ひとつ文芸理論が身に付いてないじゃないの。
あなたが身に付けたのは、
おなかの脂肪だけでしょう。
そういう厳しいアイロニーです。
・・・とほほほほ。

【 ナンセンスは、怖い。 】
「ナンセンス」は、
まず言葉から意味を剥奪します。
剥奪した後に、
今度は新しい意味を生み出す
ユニークな特徴を持ちます。
そのとき、
話者や作者が意味を与える場合と
読者が意味を見いだす場合の
ふた通りがあり、
概ね後者の方の割合が多くなります。
詩人は、
自分の手の内を隠しておいて、
読者自身が考えたくなるように仕掛けるのです。

この詩は、
多くの時間と言語を弄している、
ただそれだけの、
言語行為と行為者に対する
強烈なアイロニーが、
刃となっておそいかかります。
表現する者の
責任を問いかけています。

 作者の谷川俊太郎さんは、
この詩をひらがなだけで書き表しました。
読みづらく分かりづらいこと
この上なしです。
わざとそうしているのに違いありません。
ですから、
ひっかかりひっかかりしながら読むことです。
けっしてすらすら読まないことです。
すらすら読めないということから、
この詩怖い世界が始まっているのです。
 
【 雑記 】
「類比」
「対比」
最近では、教科書にも指導書にも
使われるようになりました。
わたしが文芸理論に出会った三十数年前は、
まさに目から鱗が落ちるような
新しい「ものの見方・考え方」の理論でした。
「科学的な
思考・認識の方法を、
物語や詩の授業に活用するなんて
斬新だなあ。」
そういう感想を持ちました。
夏、全国各地を会場として
「文芸教育全国研究集会」が開かれます。
すでに五十年目の節目を越えました。
半世紀に及ぶ研究の成果が、
今、ようやく
現場で活かされるようになりました。

「むずかしいことでも、
やさしく、
わかりやすく、
おもしろく、
教えられるようになれ。」

わたし達文芸研のメンバーは、
尊敬する西郷先生に、
なんべんともなく
ことあるごとに
叱咤激励されてきました。
が、
学んだことを忘れるす速さと
何事も忘れられるという自信だけを、
おなかの脂肪とともに
身につけているようです。
残念!

テーマ : 詩・ポエム
ジャンル : 小説・文学

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