新川 和江  おかあさん

2012-05-12 Sat : 未分類 
 カレンダーをめくると、いろいろな記念日があります。
 子どもたちにとっていちばん大事な記念日はというと、
 やはり、「母の日」でしょう。


   おかあさん             
          
              新川 和江


おかあさんは 女優じゃない

花束をもらったことも いちどもない

だからわたしがあげた

たった一りんのカーネーションにも

よろこんで すぐなみだぐんでしまう


おかあさんは学者じゃない

大ぜいの人の前で こうえんなどしたこともない

でもおかあさんの話しことばは

焼きたてのパンにバターがしみるように

あたたかく わたしの心にしみこんでくる


そんなおかあさんが わたしは好き

おかあさんは気にするけれど

笑うと 目じりに寄る あの小じわが好き

どんな香水もかなわない

〈 うちのおかあさん 〉のにおいが好き



          新川和江『野のまつり』 教育出版センター


【 母の日 】

母の日に、
カーネーションを贈るようになったのは、
いったいいつごろからでしょうか。
プレゼントをわたす側、もらう側。
心のかよいあいがあります。

この詩を語っているのは女の子、
おそらく小学校高学年くらいでしょう。
少女の目から語るこの詩には、
当然のことですが、その認識が現れています。

語り手が、もっと幼い子どもであれば、
詩の内容も大きく違っているはずです。

だれが、
だれにむかって、
どんなことを、
どういう意図を持って、
どのように語っているか・・・。

詩も文章ですから、
ことの本質は同じです。

1連の〈なみだ)の意味はなんでしょう。

2連の〈バターがしみるように〉という比喩には、
どんなエピソードがこめられていたのでしょう。

3連の〈小じわ〉
   〈におい〉・・・・

ひとくちに「母の日のプレゼント」と言っても、
たとえば、
その日にカーネーションを贈るという行為が同じでも、

子どもは日に日に成長しますから、
去年と今年では、5年前と今とでは、
こめられた思いが違うととらえた方が良いでしょう。

ですから、
子の成長、
子の認識のありように応じて、
母親も接し方を変えた方が良いのでは、と思います。

「母の日」を
わが子の成長を促すチャンスにするのです。

相手が6歳ならば、
「ありがとう、お母さんも大好きよ」と言って
わが子をギュッと抱きしめるのが良いでしょうね。
なんと言っても、スキンシップが大切ですから・・・。

8歳ならどうでしょう、
「ありがとう、うれしい。お礼にうんとおいしいケーキを作ってあげようね、
 ねえ、いっしょに作ろうか。」
こんなとこかな。
自立への一歩をうながす、
誰かのために働く喜びをいっしょに体験させる・・・。

10歳だと、
「ありがとう、うれしいよ。
 あなたもいつの日か、おかあさんになるかもね。
 ねえ、好きな子がいるの?」
こんな感じで切り出して、
それから、
お母さんの初恋の話で盛り上がったりして、
おとなの仲間入りの、
思春期の扉を開けるチャンスにする手もありますね。

子があって親があり、

親があって子があります。

子を持つお母さんの場合、
自分自身が親であり同時に子どもでもあります。
お母さんの心の背景には、
お母さんのお母さんがいます。

3連では〈 うちのおかあさん 〉と
わざわざ〈 〉書きして表現されています。

・・・ ダレニモ ハイレナイ セカイガアリマス ・・・

母を思うとき、
涙ぐむ人もいます。
そっとしておいてあげましょう。

遺伝子を継ぐという意味だけでなく
人間の魅力を継いでいく日として

「母の日」は、
これからもずっと大事にされていくことでしょう。

辻田東造 わらわれたって いいのです

2012-05-06 Sun : 未分類 
このような状況でどういう行動を選択するか、
徳目ではなく、
生き方の美醜の問題として考えたい詩です。



  わらわれたって いいのです          
                辻田 東造


かねちゃんが ろうかで

おしっこ もらして なきました。


みんなが くすくす わらった とき

あしのわるい かっちゃんが

ばけつに みずを くんで きて

さっさと ふいて やりました。


みんなが くすくす わらいだし

おべっかだ。

むり すんなよと いいました。

べろを ぺろぉと だしました。

でも かっちゃんは へいきな かおで

ぞうきんあらいに いきました。


びっこ ひき ひき おりて いく とき

あたいが いくよと

おもわず わたしが かけて いったら

じゃ ふたりでねと かっちゃんは

にっこり わらって いいました。


それから ふたりで

れんげの はな つんで かえりました。


                   辻田東造『現代少年詩集』ポプラ社
 
 【 生きることの原点として 】

詩人と同じく、
木造校舎で学んだ経験のある方ならば、
きっと、
懐かしさとともに
次のようなことを思い出すでしょう。

かつての木造校舎のトイレは、
校舎からちょいと離れた
別棟にありました。
「ぽっとん便所」と呼ばれる
くみ取り式のもので、
においのきつさもさることながら、
用を足す際に、
かなり怖い思いがありました。

「ココカラオチタラ タイヘンダ」

某少年は体が小さいので、
もう本気で心配しています。

もう出そうだ、
やばい、
我慢できない、
というときには、
便所までの距離が、
とてもとてもうらめしくなるものでした。

この詩には、
そのような時代背景があります。
木造校舎の構造上、
別棟のトイレと教室が離れていることもあって、
おもらしをしてしまう子どもが必ずいるものでした。

一連、
いきなり紹介されるのが、
おもらしをして、
〈ないて〉しまう〈かねちゃん〉のこと。
〈ろうかで〉と、
わざわざことわっているところに、
〈かねちゃん〉に同情して語ろうとする
話者の態度がうかがえます。
話者は女の子、
おそらく同じクラスの子として設定されたのでしょう。

二連・三連、
対比して
〈くすくす〉〈わらう〉〈みんな〉と、
あとしまつをする〈かっちゃん〉。

はやし、ひやかす〈みんな〉と、
〈ぞうきんあらい〉に行く〈かっちゃん〉。

の言動を交互にとらえて語ります。

このとき、
話者の〈わたし〉はまだ傍観者だったのでしょう。
だれもが、思いあたるようなシーンです。

読者のだれもが、
経験上この詩の中に登場する人物の
「だれか」を演じてきているはず。

このような状況でどういう行動を選択するか。

「人はこうするべきだ」
「皆こうあるべきだ」
という類の「徳目」ではなく、

人間の生き方として、
「美しいか」
「醜いか」
の問題として考えたい場面です。

四連、
それでも〈かっちゃん〉は、
さっさと後始末をし、
〈びっこ ひきひき〉
重いバケツをかかえて階段を降りていきます。

そのとき〈わたし〉の中に変化が起きます。

〈おもわず〉〈あたいが いくよ〉――
〈みんな〉からの決別を遂げるのです。

〈じゃ ふたりでね〉
〈かっちゃん〉の笑顔って、
きっとすてきでしょうね。

五連、
〈それから ふたりで〉
〈れんげの はな つんで かえりました〉

〈れんげのはな〉
(蓮華の花)は、
仏像の台座にある
蓮の花に似ていることで名付けられました。

泥の中から生まれる蓮の花は、
清浄な救済の象徴といわれます。

私たちは、
人間であるが故に多くの苦しみを経験します。
その幾多の苦しみを泥に喩え、
そこから立ち現れる、
清浄な精神や行為を蓮の花のようだというのです。

たとえ嘲笑されても、
自分の身がきつくても、
かまわず、
相手の苦しみを救おうとする〈かっちゃん〉の姿。

これは
苦しみを救済する
お地蔵さまの「布施」の行為に見えてきます。
だから、
ふたりの摘む花が〈れんげの はな〉なのでしょう。

〈れんげの はな〉が、
こうした象徴的な意味を持ちながら登場するのです。

最後に題名、

〈かっちゃん〉の行動は、
〈わたし〉のなかに変革を引き起こしました。

四連での
〈あたいも いくよ〉は、
〈わらわれたって いいのです〉という題名と響き合っています。

〈あたい〉が、そうした理由とも、
〈あたい〉の気持ちに生まれてきた決意とも、
読めます。

〈わらわれたって いいのです〉
こんなにインパクトのある題名は、
なかなか思いつくものではありません。

この言葉を、
読者である
わたし自身に重ねて読むことができたらいいなと思います。

  ※この詩に使われている〈びっこ〉は、
   障がいを持つ人々に対する
  「差別のことば」として認識されています。
   しかし、
   ときに詩人たちは、あえてこうした言葉を使って、
   するどい、
   突き刺さるような問いを差し出すことがあります。
   批判を覚悟して使う表現です。
   次は、
   その言葉の重みを受け取る側の「寛容」を思います。
   今は亡き免疫学の多田富雄博士が、
   未来を見据えてわたし達に残した言葉です。

新川和江  土へのオード5

2012-04-22 Sun : 未分類 
古代ギリシャでは
神様を頌えるために
子どもたちが歌を歌いながら
神殿を右に回ったり左に回ったりしたのだそうです。
その歌のために
詩人たちが書いた詩のことを
「オード」と呼ぶそうです。

土へのオード5
  
新川 和江

せり

なずな

ごぎょう

はこべら

ほとけのざ

すずな

すずしろ・・・・・・


春の草のことなら

なんでも知ってる 春の土


はぎ

をばな

くず

おみなえし

ふじばかま

ききょう

なでしこ・・・・・・


秋の草のことなら

なんでも知ってる 秋の土


わたしもなりたい

春秋をゆたかにかかえた

ふところの大きいつちに
             
 
    新川和江『土へのオード13』(サンリオ出版)


【 雑草のことば、土への祈り 】

草はなにもしゃべってくれません。
土はそれ以上に押し黙ったまま、何も語ろうとしません。
でも、
こちらからアプローチするとたくさんのことを教えてくれます。
野草の本を片手に、まずは探して歩きましょう。

アレチノギクが庭に伸びていると、
泥棒に狙われると聞いて育ちました。

チガヤの若芽はガムの代わりになりましたし、
スイバをほんとに吸っていました。

母が作ってくれる、ヨモギ餅・ヨモギ団子が大好きで、
ヨモギの葉のてっぺん、柔らかいところを嬉々としてむしっていました。
いつのまにか爪の先が真っ黒になっていました。

春の田んぼのあぜ道は
おいしく食べられる野草の宝庫でした。
野草を摘みながら、
母からたくさんのことを教わりました。

その母も、昨年の秋に
ついに帰らぬ人となりました。

セリをふかして豆腐とごまといっしょに和える。
「セリの白和え」が大好きです。
母の味です。
鹿児島では、白和えを「ヨゴシ」と言います。
何をヨゴしているのでしょう?

農薬・・・農毒
薬という名の毒。

どろのついたごぼうのいい香り。

ミツバは野生の方がお店のより、ずっとずっとよい香り。
熱いみそ汁に入れたら最高!

カラスノエンドウ・スギナ・オオバコ
とげとげアザミもなんのその、
ポッキーの味がするクズの若芽、

どれも天麩羅がおいしいです。

あ、
いつのまにか食い物の話になってしまいました。

詳しい人によると、
ムラサキケマン等の毒を持つ草以外は、
ほとんどが食べられるのだそうで・・・。
だから、
毒の草を見分けられれば十分と・・・。

あ、
また食い物の話・・・。

ジゴクノカマノフタなんて面白い名前の草もあります。

ノビルは大好物です。
生のまま酢みそにちょいとつけて食べる。
焼酎にぴったり。

あ、
また食って、
しかも飲んでる・・・。

ということで、
これがわたしの「土へのオード(焼酎編)」でした。

まど・みちお よかったなあ

2012-04-15 Sun : 未分類 
身のまわりのありとあらゆるものが
あたりまえのようにそこにあってくれる。
そして
わたしもここにいる。
それは
奇跡と呼んでいいことかもしれません。



  よかったなあ             
           
           まど・みちお


よかったなあ 草や木が

ぼくらの まわりに いてくれて

目のさめる みどりの葉っぱ

美しいものの代表 花

かぐわしい実



よかったなあ 草や木が

何おく 何ちょう

もっと数かぎりなく いてくれて

どの ひとつひとつも

みんな めいめいに違っていてくれて



よかったなあ 草や木が

どんなところにも いてくれて

鳥や けものや 虫や 人

何が訪ねるのをでも

そこに動かないで 待っていてくれて



ああ よかったなあ 草や木がいつも

雨に洗われ

風にみがかれ

太陽にかがやいて きらきらと
               

          まど・みちお『いいけしき』(フォア文庫)


【 ありがとう 】

「山川草木悉皆成仏」
(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)

という、言葉といいますか、
仏教哲学のひとつの考え方があります。

生きとし生けるものは言うに及ばず、
大地や水、
海や星や雲や風・・・

わたし達をとりまく、
ありとあらゆるもの・ことに神(カムィ)を見いだす感受性。

自然の万物の内にアニマが宿るという、
『アニミズム』から発展したものでしょう。

ただ、この考え方はけして仏教だけのものではありません。

日本では神道がそうです。
アニミズムに立脚した、八百万(やおよろず)の神々。

北海道のアイヌの方々の祈りの対象も、
同じく自然界の森羅万象です。

ネイティブアメリカンの考え方も、
オーストラリアやニュージーランドに住むアボリジニの考え方も同じです。

北米の先住民の思想も、
先だってのオリンピックでも紹介されたように、
トーテムポールに刻まれるのは、
実に多種多様な神々でした。

インドでもそう、
シバ神をはじめ、
仏教の様々な守護神は、
ほとんどが多神教の神々を取り入れたものだそうですし、

伝説というかたちで、
キリスト教やイスラム教といった一神教の世界にさえも、
儀式やシンボルに、旧来の信仰がかいま見えます。

根元をなしているアニミズムは、
自然への畏敬と感謝の感情の発露です。

「よかったなあ」とつぶやく生き方

「ありがとう」とつぶやく生き方

未熟で木訥ですが、
なぜか心惹かれる生き方で、
これからの未来を拓く思想として、
本気で向き合ってみたいと思います。

愛犬ペロが、2年前の4月に逝きました。
やすらかに 逝きました。
14年間、
家族の一員として過ごしてくれたことに感謝しています。

家族の願いもあって、
ペロのお骨は、
我が家の神棚にあります。
神様あつかいされています。
これもアニミズム、
飼い犬への畏敬と感謝の感情です。
ペロさま~
  いぬがみさま~~

で、この2月。
またも我が家に
「雑種くん」がやってきました。
知り合いからもらいました。
シーズーの風貌があります。

両手の掌にちょうど乗るサイズだったのが
体長40cmほどの
わんぱくぼうやになりました。
コタローという名前です。

なんつあ、ならん。
わっぜ、むじょかよー。
そんうち
こんブログにも
写真を貼いつけっみもんそ。

楽しゅんにしちょってね~~






萩原朔太郎 竹

2012-04-10 Tue : 未分類 
詩人は
眼の前にあるもの・ことを語るときに、
それについて語るだけでなく、
そこから飛躍して
もっともっと多くを語ろうとします。
そうして、
より深く豊かに意味づけされた世界を、
読み手に差し出しているのです。


           
       
萩原 朔太郎


光る地面に竹が生え、

青竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より繊毛が生え、

かすかにけぶる繊毛が生え、

かすかにふるえ。



かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節りんりんと、

青空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

                  
萩原朔太郎『月に吠える』 角川文庫


【 いのちは繊細で逞しい 】

前連では、
地面の下にある繊細な竹の命の姿を描きます。
弱々しささえ感じ取れるようなイメージです。

一方、後連では地面から逞しく成長していく
強い竹の命の姿が伝わってきます。

どちらも現実の竹の姿をふまえながら、
目に見えない地面の下の想像上の「竹」、
つまり現実を超えた存在として、
ほんとうはまだ現れていない、
未来の姿の「竹」、
これも想像上の存在として、
現実をふまえながら、
現実を超えた深い意味を持つ
「竹」を語っているのです。

《 繊細であり、逞しくもある。
矛盾したイメージですが、
不思議と違和感はありません。
この竹の命のイメージは、そのまま
人の命の姿といってもいいのでしょう。 》

また、
そう願う詩人の祈りが聞こえてくるようです。

大好きな絵本があります。
アーマ E ウェバー
「じめんのうえと じめんのした」(福音館)です。

草花や野菜や木などの地面の上の様子と、
地面の下の様子をさりげなくしめす、
知識絵本です。

見えないところに、
ちゃんと存在するべきものがあるから、
目の前の存在があるんだよ。
こんなメッセージが楽しい発見とともに伝わります。

宮沢賢治の童話『やまなし』も同じように捉えることができます。

描かれているのは、
水中の(水面下の)世界です。
そこで暮らす、
かにの兄弟や魚やクラムボンですが、
とつぜんそこに鳥が飛び込んできたり、
やまなしが落ちてきたりします。

鉛の天井(水面)のせいで、
かにの兄弟には見えないかも知れませんが、
外(水面上)には、
はるかに大きな世界が広がっています。

見えないからと言って、
外の世界と無関係ではあり得ないのです。

そして、
さらに時間とのかかわりも加えて
考える必要があります。

言われれば、
当たり前なのですが、
ついつい忘れてしまう
もの・ことの本質です。

(どうしようもなく目の前のできごとに踊らされ、あたふたしている日常です。)

ある面の上の(見える・・顕在する姿)

ある面の下の(見えぬ・・潜在する姿)

「竹」を見て、
詩人は、
一瞬のうちに直観したことでしょう。